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【前編】石原梱包の歩み
(昭和40年~)

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【前編】石原梱包の歩み(昭和40年~)

一.黎明(れいめい)期編

東京システム運輸ホールディングスの社史です。本稿は、当社社内報 “しるくろーど”平成2(1990)年1月第1号刊行から平成4(1992)年11月まで、連続11回掲載 された月安謙治氏(役員、監査役を歴任、平成20年6月退任)執筆による「システムの歩み」からの大半は原文のままとして、一部これを元に編集させて頂き ました。

石原新吉

人と人との出会いは不思議なものである。運命の糸と糸とが結ばれて、深い絆の出会いをもたらしてくれる。我が東京システム運輸ホールディングスの歴史も、人と人の出会いから始まった。昭和40年10月1日、我が社の前身である個人梱包運送業石原梱包が、たった1台のトラック、イスズエルフ2t車―7355―でうぶ声を上げた。

当時、石原新吉(現名誉会長)若干27才。
島根県の仁多郡、日本建国にまつわる神話、伝説が数多く作られた出雲の出身である。島根県立横田高校の2年生の時、柔道部のキャプテンをしており、柔道の腕前を買われて先輩のすすめがあり、高校柔道界で全国的に上位にランクされていた中野の明大付属中野高校に転校することになった。

空路はもとより、鉄道も今日のようなわけに行かず、まだまだ未整備。在来線と国鉄を乗り継いで東京駅ホームに降り立った。石原少年、若干17才の春単身で上京となった。
当然だが、転向後の高校時代も石原はもっぱら柔道に明け暮れ、講道館三段の免許を取得した。石原が柔道に強くなければ、先輩の薦めは無かっただろうし、ならば上京もしなかったかもしれない...ということは、東京システム運輸も今日存在しなかったかもしれない。


修行時代

【修行時代】
柔道では、肉体的な作りに要求されることの一つに足裏の大きさがある。
すなわち、足裏の大きさが体の安定性に大きく繋がる。足技を掛けられても足腰の強さと共に、足裏の大きさが持ちこたえる踏ん張りに効くのだ。
石原は血のにじむような努力の甲斐もあって、高校柔道全国大会第8位の成績を収めるほどの猛者になった。しかしながら、体の大きさの割に肝心な足裏は小さく、柔道で進んでいくことを断念した。
高校を卒業後、一時自衛隊に入隊したこともあるが、知人の紹介で昭和34年3月、当時武蔵野市関前、今の五日市街道柳橋交差点附近にあった桜井運送㈲にドライバーとして入社し、初めて運送業の道に入った。桜井運送はいわゆる町の運送屋さんで、2t、4t合わせて17~18台の車輌を持っていた。
22才の若い石原青年は、頑張り屋で人の嫌がる仕事を進んで引き受けた。当時多摩地区は、まだ武蔵野の面影を残す郊外。今のように大企業の工場や、エレクトロニクス産業が台頭していなかった時代だ。運ぶモノも、一部地元のイスのK社さんのような製品や、M牛乳の牛乳配達もあったが、もっぱら地元農協の野菜を集荷してきて市場へ運んだり、その頃まだ燃料として盛んに使われていたレンタンやタドンを運び、文字通り顔から鼻の穴まで真黒にして仕事をした。
何ごとにも積極的な石原青年は、仕事の飲み込みも早く、また、人間関係を大切にする明るい性格だったので同僚にも好かれていた。桜井社長も石原青年の能力を高く買って25才の時、渉外係長に抜擢し社長の右腕として、仕事を任すことになった。若い係長ではあったが配車から整備、営業まで、そしてドライバーが休んだりすると、早朝から車に乗ってひと仕事すませ、それから配車と、目まぐるしく急がしい毎日だったが、若さの石原青年は少しも苦にしなかった。
特に営業には力を注ぎ。渉外係長として30台の車輌を毎日動かさなければならない立場にあったので、大いに努力した。その時の経験が、後に独立して自分で事業を始める時に大いに役立ち勉強になった。


【転機】
桜井運送での仕事も順調に進んできたが、石原係長にとって何と無く飽き足らない毎日が続く。
つまり運送の仕事は天職であり、興味がある。何とか、自分自身の手で事業を興したいという意欲が涌いてきた。ただ、自分が退社することは、信頼して仕事を任せてくれる桜井社長を裏切ることになり、また、自分に付いて来てくれた仲間と別れることになり、大いに悩むことになった。でも、自分の将来にとっての夢を何とか叶えたい一心で、率直に桜井社長に相談した。桜井社長は右腕とも頼む石原青年に去られることで、さかんに引きとめてくれたが、最後は、石原青年の熱意にほだされて賛成してくれた。桜井社長から、準備が出来るまで会社に残るよう勧められた。
甘えはいさぎよしとしない石原青年は、当時結婚し立てで(英子夫人と昭和38年5月結婚)、女房、子供がいる身ではあったが、何のあてもないまま、昭和40年9月に桜井運送を退社した。


高根氏との出会い

【髙根氏との出会い】
丁度その頃、英子夫人の実家である武蔵野市関前の家の前に、当時、ティアック(株)の常務であった髙根三夫氏(写真左)が住んでいた。
向かい合わせだったので、以前から細川宅とは親しく近所づき合いをしていた。その関係で二人の結婚式にも出席し、当時から石原青年を知っていた。夫婦揃って実家に帰ってきた時など、石原青年と言葉を交わし、かねてから若いのに随分しっかりとした前途有望な青年だと思っていた。

髙根氏は、石原青年が失職したことを細川宅のおばあちゃん(細川社長(現)のお母さん)から聞き、見所のある青年なので何とか就職の世話をしようと考えた。その当時、我が社の創業以来の大得意先になるティアックさんは、S社と並んで、我が国で初めてステレオテープレコーダーを開発しており、オーディオからアナログ、デジタルの記録装置、さらにテープを使った録音、記録、計測各機器の開発と生産をしており、磁器記録の専業メーカーとして、その優秀な技術力を高く評価され注目を浴びていた。

特に昭和38年に設立した豊岡工場(後のティアック入間工場)で生産される高級ステレオテープデッキA-1200、A-1500は、優秀なメカと音の良さで、オーディオマニアの垂涎の的となっていた。米国にも輸出され、アメリカのコンシューマレポート誌でBEST BUY商品に推奨され、世界一級品の折紙がつけられて以来、引合い、商談が相つぎ増産体制をひいていた。
商品の配送は、以前から三鷹のK社や入間のM社が担当していたが、髙根氏は拡大するデリバリー需要に応えるため、強力で協力的な運送会社が必要という配送担当者の話を聞いていたので、早速、丁度桜井運送を退めて失職中の石原青年を見込んで、ティアック社の営業管理課に推薦してくれた。


独立

【独立】
かくして昭和40年10月、石原青年は晴れて独立して運送業を始めることになった。ただ、独立するには車が必要となるが、今と違ってトラックを手に入れることは簡単ではなかった。
車を手に入れるべく各ディーラーを日参したが、各ディーラーとも未だトラックの割り当てが少なく、既存の取引先に納車するのが優先で、どこも、海のものとも山のものとも判らぬ、金の無い若者を相手にしてくれなかった。
その頃丁度、やはり馳け出しの営業マンであった東京いすゞの高岡氏が、石原青年の情熱を買い、ようやくイスズエルフ1台を売ってくれることになった(高岡氏もその時の縁で東京いすゞを定年退職後、当社に準社員として入社)。当時、2t車1台90万円。大卒初任給が3万円の頃だから、相当高額な値段で、コツコツ貯めていた貯金を引き出し、生命保険を解約し、親戚の援助を仰いでなんとか工面して、ようやく待望の車を手に入れたエピソードもある。
まだ運送免許を持てないので、ティアックさんの梱包発送業務を請負い、最初に手がけた仕事は、梱包した製品を豊岡工場から品川のS社、そして横須賀にあった米軍PXのK商店や、横浜のG製函への配送と、朝から晩まで休みなく働いた。
ティアックの豊岡工場でも、テープデッキは増産につぐ増産。国内販売から海外への輸出が増えたため、増車が必要となった。
他にK社やM社があったが、熱心な仕事ぶりで、誠心誠意協力してくれる石原青年を高く買ってくれ、協力するから是非増車しなさいと勧めてくれた。昭和40年の暮れ、我が社の経営の柱となる石原青年の義弟、細川廣承(現社長)が高校を出てすぐ馳せ参じてくれた。細川青年の仕事振りも兄に劣らず熱心で、兄弟二人の仕事振りはたちまち豊岡工場で評判となった。
また、当時テープデッキは貴重品であり、壊れやすいこともあったので、地方に発送する時は木枠で梱包して出荷していたが、梱包作業場を持たない石原梱包では、武蔵野市関前の細川宅の路上が、たちまち梱包作業場に早がわりした。
ただ、石原、細川青年が梱包すると大きすぎたり、小さすぎたりしてうまくデッキが木箱に入らない。ところが英子夫人が梱包を引き受けると、これがまた上手でスッポリ入る。
英子夫人(後に取締役就任)は我が社の梱包要員第1号となり、もっぱら梱包と連絡係、そして家事と急ガしい毎日を送ることになる。


明るい希望

【明るい希望】
昭和40年当時は、東京オリンピックの終わった昭和39年秋から昭和40年3月頃までが、40年不況の第一段階だった。不況は10月を底として上昇するが、よく、40年不況は昭和の30年代と40年代の日本経済を区分する重要な時期であったと云われる。
以後この“40年不況”を境として、第二次耐久消費財ブームが起こり、産業構造の変化が明確になって、大量生産、大量消費時代に突入し、我が運送業も大きく変革し、拡大飛躍の幕明けを迎える。町にはその年のレコード大賞に輝いた、美空ひばりの“柔”が流れていた。若い三人にとっては金も暇もなかったが、前途に明るい希望を持ち、朝早くから夜遅くまで頑張った。
昭和42年5月蔵田武男氏入社(蔵田さんは、我が社の運行管理、整備管理の基礎を築いてくれた恩人)、昭和42年8月長瀬福寿氏入社(各所所長歴任し平成9年2月退社)と、強力な助人が馳せ参じスタッフも揃い、昭和42年10月の法人設立(石原梱包株式会社)の準備が整っていった。